2018年7月11日水曜日

いなか暮らし  高知県仁淀川河口あたり 川の風景

ここ数年、仁淀ブルーと呼ばれ、水質も良くきれいな支流がたくさんあると話題の仁淀川。

仁淀川は、愛媛県の石鎚山系に発し、100Km以上流れ下って、高知県土佐市と高知市の間を土佐湾に流れこみます。


家いなか暮らし 高知県仁淀川口あたり 川の風景 


仁淀川の河口には、仁淀川河口大橋があり、その下をくぐると、土佐湾になります。

仁淀川が土佐湾に流れ込む河口は、サーフィンに良い波がたつのだそうです。

ただし、川の流れのパワーも強いため、沖に流されることがあり、慣れてないと焦ってしまうとのこと。焦って戻ろうとすると力を消耗してしまう。

基本的には長されたらそのまましばらく流される。そうすると東側(高知市側)に流されながらやがて沖に出る力が弱まるので、そこから岸に向かって帰ればよいとのこと。



仁淀川河口にある風の郷(まぜのさと)

















仁淀川加工大橋の西側(土佐市側)新居(にい)地区にある道の駅 南風の郷(まぜのさと)
1階には地場の農産物などの直売所、2階は喫茶になっています。ただし、直販所は夕方早く締まるので注意。
すぐ前の堤防に上がれば海が一望できます。
もちろん河口でサーフィンしている様子も見られます。








高知県仁淀川河口大橋のから北を眺める

 仁淀川河口大橋からの眺め。
空気の澄んだ日は、はるか上流地点に近い、伊予富士や寒風山が見えることがあります。
伊予富士、寒風山は、高知県と愛媛県の県境にある山。
河口から、上流部の山が見えるのも珍しい風景です。

特に冬のころにこの橋を渡ると、雪をかぶった山が見えます。それが愛媛と高知の県境あたりの山です。

高知県仁淀川河口大橋の流にある堤


河口から10kmほどさかのぼったところには、八田堰(はたぜき)と呼ばれる堤防があります。江戸時代に作られた大きな堰。川の流れに逆らわないようにと、川に綱を張って、そのたわみ方をまねて堰の形がデザインされています。今は何度かの改修でコンクリートで作られています。この堰で止められた水は灌漑のために用水をたどって、高知市春野地区と、土佐市を今も潤しています。作られてから数百年もたってもまだ使われている堰です。
※現在では、堰の横に新たに水門が作られて、この堰から水がとられているわけではないです。

高知県仁淀川田堰と野中兼山


この堰は、江戸時代に野中兼山という土佐藩の役人の支持のもと作られました。この堰よ用水のおかげで高知市の春野地区、そして土佐市近辺はたくさんの用水が流れて農業の灌漑として使われています。

野中兼山がつくったけれど野中兼山がったわけではない!?八田堰

野中兼山がつくった、という風に現在でも紹介されていますが、野中兼山が自分で作ったわけではありません?

要するに野中兼山はデザインをしたのですが、費用や労働力を提供したわけではありません。

野中兼山が堰作るぞ、おい近所の村から人とお金を出せ!

という形で作られたものなのです。

他にも野中兼山は、高知県東部の港や、物部川の堰などたくさんの今に残る土木事業をしています。

そのうちの港をつくったときの様子の記録を見ると、その地区の庄屋にお金を出させて、その地区の住民たちに土木工事をやらせた。その負担が大きくて庄屋が何件も潰れて、村人はその厳しい労役に耐えられず村を捨てて逃げ出したという記録が残っているそうです。


水量が増えた時の八田堰


今日のため?日のため?

おそらくこの堰もそんな風にして作られたのだと想像できます。ただしそれぐらいの犠牲を払ったそれらの施設は平成の時代になっても いくらかの回収はされましたが、基本的な構造はそのままに今でも人々の役に立っています。

時々考えてしまいますがその時の住民たちの人気だけを取るのが政治なのか 犠牲を払ってでも これから先100年200年と続く システムを作っていけるのが政治なのか、と。
もちろん答えなどはないでしょうけれども、時に考えてしまいます。

結局、野中兼山はそのやり方の強引さで人々の恨みを買い、失脚させられます。
この話しは、高知県出身の作家大原富枝が、野中兼山の娘のことを小説にした「婉という女」に出てきます。

野中兼山は、失脚したけれど、野中兼山の作ったものは残った・・・

考えることも多い事実です。
 

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